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願いがいつか叶うまで

ひとりじゃない

ミスターシービー(その4)

 菊花賞を勝ったあと、ミスターシービーは休養に入ります。

 ミスターシービー不在の間、ジャパンカップでは天皇賞キョウエイプロミスが惜敗、有馬記念ではミスターシービーと同世代のリードホーユーが優勝します。

 ミスターシービーが休んでいる間に、この三冠馬にとってはなはだ不都合なことが起こります。

 それは、シンボリルドルフの登場です。

 ミスターシービーの一歳下のシンボリルドルフは、無敗で牡馬クラシック二冠(皐月賞日本ダービー)を達成します。

 もし、シンボリルドルフが無敗のまま菊花賞を勝ったら、日本競馬史上初の「無敗の三冠馬」が誕生するのです。

 そのとき、ミスターシービーの立場は--。

 

1984の大改革

 さて、1984年は、中央競馬の競走体系が大きく変わった年であります。

「G1」という概念が生まれたのは1984からなのです。レースにグレードをつけることで国際化を目指したのです。「G1」「G2」「G3」という3種類の”格”ができました。中央競馬は「G1」を頂点として競走体系が整備されることになりました。

 

1984年当時のG1競走

 このうち、新設された競走が『マイルチャンピオンシップ』です。春の安田記念とともに、距離は1600メートルで、短めの距離の路線を段階的に整備することになりました(その恩恵を真正面に受けた馬が、ニホンピロウイナーです)。

 

 そして、グレード制の導入に匹敵するほど注目を集めた「変化」が、天皇賞(秋)の距離短縮です

 

 それまで、天皇賞は、春秋ともに3200メートル(春は京都、秋は東京)で施行されておりました。

 ジャパンカップで惜敗したキョウエイプロミスは、3200メートルの天皇賞(秋)の最後の優勝馬ということになります。

 

 1984年から、天皇賞(秋)は、2000メートルに距離短縮されました。

 なぜか? これには諸説あります。なんとミスターシービーを勝たせるため』というオカルトめいた説もあったようです。ひとつ根拠となる理由を挙げるとすれば、やはりグレード制と同じく、「国際化」の大義名分によるものだったのではないでしょうか。

 

4つ目のビッグタイトル

 さて、ミスターシービー古馬になったわけですが、最初の古馬G1たる天皇賞(春)モンテファストーーこれも吉永正人の騎乗馬ですーー、つづく安田記念ハッピープログレス、上半期の総決算レースとなった宝塚記念カツラギエースが、それぞれ優勝しました。

 

 ミスターシービーの復帰は84年10月、前々回で触れた、ターフビジョンが設置され、カツラギエースとデスマッチを演じた『毎日王冠』。この時ミスターシービーカツラギエースに敗れ2着でした。

 もっとも、1年近く休んでいたのですから、結果は上出来といえるものでした。

 そして、秋の大目標である、距離短縮された天皇賞(秋)に臨むわけです。

 またしてもカツラギエースとの再戦という形になりましたが、ミスターシービー単勝1.7倍の断然の1番人気です。

 

  ミスターシービーはいつものことながら先行集団から大きく離れた最後方に陣取ります。ターフビジョンに最後方待機のミスターシービーが映し出されると、場内がドーッとどよめきます。

 3コーナー。勝負所。なんとミスターシービーは最後方から内を突いて上がってきます。追い込み馬はふつう大外を回って上がっていこうとするのですが、ミスターシービー吉永正人インコースまくりを敢行しようとします。その映像がターフビジョンに映し出され、場内からは地鳴りのような歓声が沸き始めます。

 内を突いて中団のうしろまで進出したミスターシービーは、直線入り口で進路を外に切り替え、自慢の鬼脚を炸裂させようとします。

 そのときカツラギエースは前から3番手。しかし、直線で馬群は横に大きく広がり、あっという間にミスターシービーの鬼脚はカツラギエースを射程圏にとらえます。

 残り200メートル。カツラギエーストウショウペガサス、同じ4枠の青い帽子のニ頭を、ミスターシービーの鬼脚が、なで斬ります。

 

ミスターシービー、これで4つ目のビッグタイトル!

 

 ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI。場内実況も担当)の白川次郎アナウンサーが、高らかに名馬の復活を宣言したのでした。

 

 

次回お楽しみに