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願いがいつか叶うまで

ひとりじゃない

高校数学/大学教育/卒業論文

 高校時代、塾の数学の先生に、「すぐ答えを見るからダメなんだ、お前は自分で考えようとしていない」といつも怒られていた。和田秀樹の暗記数学が流行っていた。和田式暗記数学に影響され、青チャートを買ったが、ついに僕は国公立受験を放棄する羽目になった。

 

 数学の問題は、世界史の問題のようにただ覚えた知識を書けば正解! というものではない。公式や定理はある。だが、究極的には「自分で考えて」解答を導き出さなければならない。

 

 高校での勉強と、大学での勉強は、うまく接続していないと思う。大学の講義では、「先生の言うことを信じてはいけない。自分で考えなければならない」と、繰り返し先生に言われる。レポートのコピペで、停学になった同級生を知っている。自分で考えて書かなければ、進級すらできないのだ。

 

 まず、高校の現代文教育を否定される。「作者の意図」を否定される。僕の学部は「現代文が得意なやつが入る」というパブリック・イメージが持たれている。でも、渡部直己は講義で言っていた、「古文より現代文ができた子は不幸だ、現代文より古文ができた子は幸運だ」と。

 

 ちなみに、教授を「◯◯先生」と呼ぶことすら、僕の大学では否定されることがあった。高橋敏夫さんは、「埴谷雄高に、『先生』と呼びかけると、彼は『今先生と言ったやつは誰だ!』と怒った。みんなは私のことを『高橋先生』ではなく『高橋”さん”』と呼んで欲しい」と話していた。

 

 詰め込み型の教育が否定され、自律的な思考が推奨される大学。僕は、高校の勉強と大学の勉強が接続しないという事実に途方に暮れ、6年間なにもできなかった。

 せめて高校時代、数学の勉強をがんばっておけばよかったのかもしれない。「自分で考えて解こうとしないじゃないか!」という塾の先生の言葉を、いまさら思い出している。

 

 「自分のことば」で書こうとしたのは、卒業論文だけだ。どこまで「自分の思考」で書くことができたかは、わからない。卒業論文を書いたのは5年生の時で、「提出できなかったら退学しろ」と、上京してきた親父から最後通牒を出された。だから必死で書いたのだと思う。

 

 追いつめられて書いた卒業論文は、悪い意味でも良い意味でも僕の人生を左右するようになるのだが、それはまた別の話。けっきょく僕は、大学教育に向いていなかったのだと思う。ただ、今も大学図書館を利用できるのは、両親と、自分が書いた卒業論文のおかげである。