願いがいつか叶うまで

ひとりじゃない

遠藤周作「酒のさかな」

 

狐狸庵食道楽 (河出文庫)

狐狸庵食道楽 (河出文庫)

 

 

 僕はエッセイを読むのが好きです。むかし、母も本の中ではエッセイが好きだと語っていましたから、遺伝かもしれません。例えば村上春樹の『村上朝日堂』シリーズの最初の2冊を新潮文庫で読むと、心が落ち着きます。近年はほとんど娯楽小説を読まなくなったので、楽しみとしての読書は歴史関係の本、そしてエッセイにほとんど限られています。

 

 根が真面目なので、精神の緊張を伴う本ばかり普段は読んでいます。本棚も岩波文庫岩波新書で侵食されつつあり、偏食ぶりには我ながら参っています。

 精神の緊張を伴う本ばかり読んでいると、胸がだんだん張り詰めてきます。近頃まで、僕には、教養としての読書に対する過剰なあこがれがありました。教養を強要されているような具合に。僕は教養としての読書をしない人を軽蔑します。でも、教養主義を過剰に鼓吹して、柔軟性のないスノッブすぎる人には憐れみを感じます。僕も、そういうスノビズムにすんでのところで陥るところでした。

 

 僕は、自分が「何が好きだったか」を振り返ることにしました。すると、歴史が子供の頃から好きで、『村上朝日堂』シリーズの最初の2冊を繰り返し読み返していたことを思い返しました。歴史については無関係なのでこの記事では触れませんが、とにかく歴史とエッセイが好きだったことを再確認したのです。

 

 エッセイにも良し悪しがあります。村上春樹の『村上朝日堂の逆襲』は、僕にもっともフィットしたエッセイ集で、何度も読み返しています。村上龍は、(多作すぎるきらいがあるとはいえ)小説は面白いと思うのですが、『13歳のハローワーク』含め、エッセイはどうも面白く無い。何とは言いませんが、世には有害なエッセイ集も溢れている感じがします。それから、あまり真面目すぎるエッセイも好きません。肩の凝らないものを好む傾向にあると自覚しています。

 

 さて、最近、エッセイの楽しさと自分における意味の大きさに気付かされた小編が、遠藤周作の『狐狸庵食道楽』(河出文庫)に収められた「酒のさかな」というごく短いエッセイでした。

 

 

 

『狐狸庵食道楽』は、タイトル通り、食事に関するエッセイ集です。多くのページが、お酒についての文章に割かれています。「酒のさかな」は、その一群の中の小品、わずか3ページにも満たないエッセイです。

 

「酒のさかな」は、タイトル通り、美味しい酒の肴を遠藤周作が紹介してくれるエッセイです。取り上げられているのは、

 

・土筆(つくし)の醤油煮

・芹にドレッシングをかけただけのもの

カラスミ

・岡山のままかり

・そば味噌

・焼味噌

 

といったもので、肴の話ではなく、「きだみのる」に飲ませてもらった、切った竹の中であたためた酒の話も出てきます。おそらく酒をあたためた竹が、肴だと言っているのでしょう。

 

 僕は、冒頭の、土筆の醤油煮とドレッシングをかけた芹で著者が呑んでいる描写を想像するだけで、ツバをごくりと飲んでしまうのですが、それにもまして、先述のきだみのるが飲ませたという竹であたためた酒の記述にウットリとしてしまいます。ひょっとしたら最高の酒の肴とは、食べ物ではなくこういったものなのかもしれません。

 

 最後の段落で、著者は、酒を飲みながら人生は面白くないと仏頂面をしていると述べ、やや寂寞とした感じでこのエッセイは締めくくられています。「酒のさかな」というエッセイの本来の趣旨はそこにあるのでしょう。でも、僕は、土筆の醤油煮とドレッシングをかけた芹や、きだみのるが酒をあたためた竹という肴の魅惑に恍惚となり、エッセイのその部分が病みつきになって、繰り返し読んでしまうのです。


 僕は実は昨日このエッセイを初めて読みました。「読書の快楽があるとしたらこんなものだなあ」と思いました。「お勉強」としての読書に凝り過ぎたあまり、こころのバランスがとれなくなっていたことを省み、楽しみとしての読書もスパイスとして加えることで、こころのバランスを調整しようと思いました。そして、コンビニに一番絞りを買いに行きました……。