願いがいつか叶うまで

ひとりじゃない

メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読もう!(第1回)

ばふちん君と、文学青年だけど哲学方面にも興味を持ち始めたプーシキン君が、こんな本を用意していました。

 

知覚の現象学 1

知覚の現象学 1

 

 プーシキン「これが読みたいんだ」

ばふちん「ウォッ、4800円(税抜)という価格に違わぬ威圧感・・・!」

プー「でも意外と薄いだろう」

ば「薄いっちゃあ薄いけど、いかにも難しそうな本だな・・・」

プー「あたりまえだよ。だから今回は、一文ずつ意味を考えながら読んでいきたいんだ」

ば「一文ずつ!?」

プー「えー、まずは『訳者序』から--」

ば「Σ(゚д゚) エッ!? そこからやるの!?」

一、本書はMaurice Merleau-Ponty:《La Phenomenologie de la Perception》, Gallimard,1945のAvant-Propos,Introduction,Premiere Partieの部分の邦訳である。(ⅰページ)

 ば「(本の該当箇所を見て)な、ななな何か、フランス語らしきものにアクセント記号みたいなものがちょいちょい付いてるけどこれは・・・!?」

プー「やむを得ず省いた」

ば「( ゚д゚)」

プー「まぁインターネットの限界だよ」

ば「( ゚д゚)」

プー「さて、この文は一体何を言わんとしているのか--」

ば「ちょちょっと待ったこりゃメルロ=ポンティ先生じゃなくて訳した先生の言葉だから」

プー「そうだね」

ば「そうだね、っておい!」

プー「Maurice Merleau-Pontyはモーリス・メルロ=ポンティのことでいいよね」

ば「そ、そりゃそうだね・・・:(;゙゚'ω゚'):」

プー「La Phenomenologie de la Perception》も『知覚の現象学』の原題だってなんとなくわかるよね」

ば「まぁ、それくらいは・・・」

プー「原著が1945年に出されたことも記されてるよね」

ば「それはわかるけど、Avant-Propos,Introduction,Premiere Partieってどの部分やねん」

プー「(ググりながら)Avant-Proposは『序文』だね」

ば「Introductionは・・・『序論』でいいんだな」

プー「(ググりながら)Premiere Partieは『第一部』だよ、たぶん」

ば「『たぶん』って、おい!」

プー「(第2巻を確認して)うん、それでいい」

ば「ああ、第2巻にも訳者序があるんだな」

プー「つまりこの本には、『序文』『序論』『第一部』の訳が収録されてるんだ、続きは第2巻」

 

底本としては第十二版のものを用いたが、版によって異同はないように思われる。(ⅰページ) 

 ば「要するに改訂がなかったってことだろ」

プー「そうだね、次行こう」

 

二、翻訳要領としては、まず竹内がテクスト全部を訳出し、小木がそれに目を通した。(ⅰページ) 

 ば「つまり竹内さんが原文を全訳→小木さんがそれをチェック、って流れだったんだろ」

 

訳注は、心理学および精神医学関係は小木が、哲学および文学関係は竹内が、それぞれ作成した。(ⅰページ) 

 ば「小木さんの専門分野が心理学や精神医学方面で、竹内さんの専門分野が哲学や文学方面だったみたいだな」

 

なお訳出に当っては、英訳(中略)と独訳(中略)とを参照し、それらから多くの恩恵を蒙ったが、もちろん必ずしもつねにそれらの解釈に従ったわけではない。(ⅰページ) 

 ば「英語とドイツ語の部分中略しちゃったよ!」

プー「そのほうが効率がいいよ」

ば「(意外と適当だなこいつ・・・)」

プー「『もちろん必ずしもつねにそれらの解釈に従ったわけではない』ってどういうことだろう」

ば「『解釈』ねえ・・・

 英訳した人や独訳した人が『解釈』しながら訳したと、邦訳を担当した竹内さんと小木さんは『解釈』したんだろうか」

プー「たぶん、翻訳することに解釈することが含まれている、って竹内・小木両名は考えていたんだよ」

ば「『それらから多くの恩恵を蒙ったが~』以降の部分は、つまりこういうことでしょ、日本語に訳すうえで英訳や独訳は大いに参考になったけど、英訳や独訳の通りに訳したわけではない、と」

プー「あくまでも原語のフランス語から訳出しましたよー、ってことを竹内さんと小木さんは強調したいんだよ、きっと」

 

原文は息が長く、一パラグラフもきわめて長いのが普通であるが、いわゆる<読み易さ>を狙って一パラグラフを分断するようなことは避けることにした。(ⅰページ) 

 ば「『パラグラフ』ってなんだっけ」

プー「『段落』だね」

ば「なんで読みやすくするために段落を分けないんだろう、分けなかったら長くて読みにくいままじゃねーの」

 

ベルグソンにしてもサルトルにしてもメルロー=ポンティにしても、ドイツの哲学書とは異ってフランスの哲学書では、多くの場合こまかい節分けがなく、パラグラフの切れ目もきわめて長いのが普通なので、読者もそういう仕方での思索をそのままに把えていただきたいと思ったからである。(ⅰページ)

ば「あー、わかるわ、ベルクソンサルトルもパラグラフの切れ目がなかなか来ないもんな。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』なんかもそうだった」

 

しかし、目次にはテクストにあるとおりの節分けの小見出しを掲げ(但し、『序文』の部分は訳者の作成したものである)、さらに読者の便のため、テクストにはないページ附けを明示して置いたので、それぞれのパラグラフが何をテーマとしているかは容易に解るはずである。(ⅰ-ⅱページ)

ば「(目次を見て)あー、目次を参照しながら読んで行けってことだな、本文では特に節分けは記してないけど」

プー「パラグラフが何を言っているか分からなくなったら目次に戻ってみよ、ってことだね。

 今日はこのぐらいにしようか」

ば「・・・( ^ω^)」

プー「何か言いたそうですな」

ば「あのー、次回から本文を書き出すのはやめにしませんか。

 いちいち書き出すのは死ぬほど時間かかるし、著作権的にも全文を書き出すのは色々ヤバそうだし(;^ω^)」

プー「じゃあこれを観ている人が、この本を所持しているという『前提』で進行していくのね」

ば「そういう方向で・・・(;^ω^)

『どこの部分を読んでいるか』ってのがわかるように、穏便に」

プー「うんわかった! (゚∀゚)」

ば「(大丈夫なのかこの企画の先行き・・・)」